カトリック 信仰心と神様と私

ピンクの花

先日、知人に「信仰心があると人生って変わるの?」と聞かれました。確かに、信仰心があるのとないのとでは生き方は変わると思います。けれど、私にどれほどの信仰心がるのかと考えてみると、うーん……、と悩んでしまいました😅
毎週、必ず教会には行きますが、自分が信仰深いとはとても言えません。神様は本当にいるのか?と聞かれると、自信を持って「神様はいる」と言えないあたり、私の信仰心はかなーり怪しいような気がします💦

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神様は春の陽だまり

私にとって神様はどんなものなのか?と言うと「春の陽だまりのようにあたたかい」ものです。それは、私が初めて「神様を感じた」時の印象です。

気のせいじゃない?と言われそうで、誰にも話した事はないのですが(多分、ここにも書いていなかったと思います)、辛い日々を過ごしていたある日、私を突然包んだ「暖かく安らぎにあふれたもの」。私はそれを神様と感じずにいられませんでした。

まだ教会にすら行っていない頃でしたが、私はなぜかそれが「神様だ」と思ったのです。そして、それから間も無く教会へ……、ではなく教会へ行ったのはそれから1年ほど経った後でした😅
神様からしたら「反応遅すぎるんじゃないの?」でしょう。

そんな風に、神様の存在を感じたことがあるにも関わらず、私は「うーん、本当にいるのだろうか?」なんて思ってしまうのです🙄
そんな私の信仰心は、やっぱり深いとは言えません。
私のように「神様を感じた」という瞬間があっても、目に見えない神様の存在を「本当にいるのかしら?」なんて思ってしまうあたり、神様は「あーあ」と深くため息をついているのではないかと思います💦

神様に文句と愚痴を言う

理不尽な出来事や辛い出来事があると、私はついつい神様に文句を言ってしまいます。

他人を平気で傷つけるあの人があんなに幸せにしていて、どうして私が嫌な思いばかりしなければならないの?
こんなに頑張っているのに、ズルをしたあの人ばかりが得をして不公平ではないの?
耐えられない試練は与えないと神様は言うけど、試練2倍キャンペーン中ですか?

などなど、道を歩いている時も、心の中で「神様に抗議」してしまいます。ある神父様がお説教で「人間は請求書のお祈りばかりしがちです。神様にありがとう、と領収証のお祈りをしましょう」と言われたことがあります。私の場合、請求書のお祈りどころか「クレームのお祈り」になってしまっています。

もしかしたら、神様のノートには「クレーマー」なんて印がついているかもしれません😱

よりよく生きるために

そんなこんなで、私は決して信仰深いとは言えません。信仰心があると人生が変わるのか?と言う質問には「その人次第」としか答えられません。信仰を持っていても困った人はいますし、信仰を持っていなくても良い人はいます。
私の場合は信仰を持つことで「生きることの支えができた」と思います。信仰は持たなくとも生きることができますが、私は信仰がある人生の方がより良く生きられる気がします。

よく冗談で「神様が見ていると思うと(悪いことを考えても)踏みとどまれる」と言っています😅

神様はいるのかいないのか?天国や地獄はあるのかないのか?特に母が亡くなってから「母の魂はどこに行ったのだろう?」と、そんなことを考えるのですが、考えても分かるものではありません。ただ、きっと神様はいて、私たち人間には理解できない世界がきっとあるのだう、と思ったりします。

私を包んだ優しく暖かいものが、何だったのかは実のところはわかりません。気のせいだとか、ただの発熱だと言われればそうかもしれません。けれど、私はあの安らぎに満ちた暖かいものが、神様のものであったと信じたいです。

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