カトリック なぜ不幸や苦しみがあるのか
私は子供の頃から、何となく神様と言う存在が気になって仕方がありませんでした。神様っているのかな?いないのかな?と。そして、私の中で神様と言えばキリスト教の神様で、どうしてそうだったのかは自分でもよく分かりません。
私が洗礼を受けたとき、宗教に感心のない両親は反対もしませんでしたが、どちらかというと神様に対しては否定的な考えでした。「神様がいるのに、どうしてこんな悪い世の中なのだ」と。神様がいるのなら、神様が何とかするべきだ、と言うのです。
確かに、「なぜ神様がいるのに不幸や苦しみはなくならないのか」と思います。
神様が人間に与えてくださったもの
いつだったか、お説教の中で神父様がそのことについて話されたことがありました。
神様は自分に似せて人間をお作りになりました。人間は他の動物と違い言葉を使い、計画を立て、そして愛を持った存在として作りましたが、大きな特徴のひとつは「自由な意志」でした。神様が自分で選択できる能力を持つように、人間にも自分で選択できる自由をお与えになったと言うのです。
アダムとイブは「自由な意志」で蛇の誘惑にのって、神様から「食べてはならない」と言われていたリンゴを食べました。2人は「悪」に負けて罪を犯してしまったのです。まるで出鼻をくじかれるように罪を犯してしまった人間を、なぜ神様は作り直そうと思わなかったのかとも思います。
なぜ、神様は「悪」が存在しない世界を作らず、「誘惑」(悪)を行う蛇という存在を作られたのか、とも思います。
「悪」を選択せずに生きると言うこと
これは、私が個人的に考えたことですが、「蛇」は実際の蛇ではなく、人間の中に存在する「悪」の部分の象徴ではないかと思います。人間の中には、善と悪が存在していて「自由な意思」を持って作られた人間は、良いことも悪いことも考えることも出来ます。
リンゴを食べてしまったアダムとイヴは、きっと「どうして神様はダメだと言ったのだろう?」と疑問を持ち、神様の言葉を疑うと言うことをしてしまったのではないかと思うのです。もちろんアダムとイヴは、自分たちを作った神様を愛していたでしょう。けれど、疑ってしまったのです。
これは、私たちが、愛する人を疑ってしまうことがあるのと同じではないかと思います。「本当にそう思っている?」「浮気してる?」「嘘を言っていない?」……、そんな疑いから悲劇や争いが起きてしまうこともあります。
神様が与えてくださった「自由な意志」と言うのは、善にもなるし悪にもなってしまいます。「悪を選択することも出来る」という中で、悪を行わない選択をしていくことが、人間を愛によって結びつけていくのかも知れません。
なぜ人間は苦しまなければならないのか
けれど、何の落ち度もない人が苦しまなければならない理由はなぜなのだろう、と思います。特に、貧しい国に生まれるのは自分の選択ではないし、良くない親のところに生まれるのも自分の選択ではありません。仏教やヒンドゥー教なら「カルマ」などと説明するのでしょうが、カトリックにはそんな概念はありません。
人を陥れて欲しいものを手に入れて幸せになる人もいるし、人を苦しめて自分が幸せになる人もいます。そんな時、「神様の愛は公平なのか」と思ってしまうことがあります。
なぜ、神様はみんなを公平に幸せになれるようにしてくれないのだろう、と思います。
ヨブ記では、どんな仕打ちを受けてもヨブは神様への信頼を失わず、「神様から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と決して罪を犯さず、神様を信頼し続けることで最後は幸せになりました。
私にはヨブほどの信仰心はありませんし、生きるのが辛い時に「不幸まで受け取ろう」と思うことは、とても難しいです。つい神様に文句を言ってしまいそうになります。
不幸や苦しみのない世界に生きていたい、と誰もが考えると思います。そんな世界を作るのは不可能に近いのかも知れませんが、人間が「自由な意志」で悪ではなく善を選択していくことが出来れば、世界は少しづつ良くなっていくのではないかと思います。神様を信じる人も信じない人も、人種や文化、宗教の違いなど、お互いに自分と違う部分を受け入れて、思いやりを持って関わっていくことが出来れば、今よりもずっと良い世界になるのではないかと思います。