生きることの「空しさ」と神様

日曜の朝のミサは、行きはまだそれほど暑くはありませんが、ミサが終わる頃には「猛暑」に突入していて、駅まで歩くのすら辛い気温です。ミサ後は駅へ向かう途中、吸い込まれるように友人と一緒にスタバに入ってしまいました。涼しい店内に入ると、なかなか外に出る気にならず、ワンモアコーヒーの長話となってしまいました😅
話題になったのは、今日のミサで読まれた朗読ではなく、先週のミサで読まれた第一朗読「コヘレトの言葉」。『すべて空しい』という、アレです。友人と「あの気持ちはよくわかるわぁ」なんて言いながら「未だに、神様は本当にいるのか?って思っちゃう」と言う話になりました。

神様を信じたいし、もしも、神様はいないと言われたらショックで立ち直れなくなりそう。でも、「本当にいるの?」と思ってしまいます。
ついさっき、ミサで『全能の父である神を信じます……』って「信仰宣言」を唱えたばかりなのにこの有様。神様は「愚か者よ……」と呆れているような気がします。

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生きることの「空しさ」

さて、大抵の人が「本当に、人生そうだよね」と首を縦に振ってしまうコヘレトの言葉は出だしから「すべては空しい」と始まります。先週の第一朗読で読まれたのは1章2節と21節から23節です。

ヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。

私はこの朗読を聞いたり、読んだりするたびに、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の……」なんて言葉や『般若心経』の「色即是空」なんて言葉が浮かんできたりします。

去年の夏に母が亡くなり、その後、母の遺品を片付けながら「こんなにたくさん色々なものを持っていたのに、何も持たずに旅立っちゃったね」と思いました。
お気に入りのものも、大切にしていたものも、母は何一つ持たずに旅立ちました。それが「生の終わり」なのかも知れませんが、その時私は「空しいなぁ」と思いました。多くのものを持っていたって結局、死んでしまったら何も持ってはいけないのです。

私も色々なものを持っています。もしも、私が明日死んだら、これらのものはただのゴミになってしまうだけです。
私が、頑張ってお金を貯めて買ったものや、努力して得たものも、です。
母の遺品の中から、私はいくつか母が大切にしていたものを形見として持ってきましたが、それだって私が死んでしまえば、何の価値もありません。
(歴史に名を残す人ならば、ずっと受け継がれていくものもあるのかも知れませんが)

そう考えると、「何だか人生って空しい」とコヘレトの言葉のようになってゆくのです🙄

人生は空しい、だから神様が必要

人生は、真面目に考えれば考えるほど「空しい」のかも知れません。いつか終わる命を生きることに何の意味があるのか、と。

私にとって、神様はそんな「空しさ」を埋めてくれる存在なのかも知れません。だから神様を信じたいと思うのかも知れません。
どんなに辛いことが起こっても、神様を思えば乗り越えられる気がしますし、正しく生きられる気がします。この命を終えた先があると思えば、この人生は空しいだけのものではないようにも感じます。

神様は「空しい地上の人生」を生きるための希望、とも言えますが、実際のところ、会ったことのない神様が本当にいるのかどうかは、やっぱり分かりません。
「神様は脳が作り出したもの」なんて内容の本を見た事もあります。「神様はいない」と言われると立ち直れそうにないので怖くて読めませんが(←小心者)、それでも、ある意味、人間が生き抜くための術として、本能的にインプットされているものだと言われたら、何となく納得できてしまいます。
だって、無宗教の人でも何か大変なことが起こると「神様!」とか「南無阿弥陀仏」って言うし……。

宇宙の周りがどうなっているか分からないし、理解できないことを考え始めると、やっぱり人間には理解できない大きな存在(神様)がある、とも思います。

暑さから逃れて、涼しいところで、私と友人はそんな話を延々と続けました。

最後は、「神様がいないって、それだけは勘弁してほしいよねぇ。神様はいるってことにしなきゃ、この人生を生きていけない!」と言う私たちを、神様は「あーあ」とため息をついて見ていたかも知れません😅

ちなみに「コヘレト」は人の名前ではなく、ヘブライ語で「集会を集める人」という意味なのだそうです。ちゃんと勉強するまで、私はずっと誰かの名前だと持っていました💦

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