カトリック初心者の日々 〜キリスト教は輪廻転生しない〜
洗礼後、もっと学びたいと思って、別の教会の入門講座に参加していました。
これから洗礼を受ける人も、すでに受けた人も一緒に学ぶ少人数の講座で、和やかな雰囲気のなか、信仰について深めることができました。
ある日の雑談タイム、ふとした冗談から「輪廻転生」の話題が出て、私はちょっと驚くことになりました。
※この記事は、もともと2017年に書いたものでしたが、2025年に少しリライトしました。当時より少しだけ理解が深まった気がします。たぶん。
さらに内容を読みやすく再構成した新しい記事もありますので、よければこちらもどうぞ
>>カトリックに輪廻転生はある? 死生観の違いと「まわらない」意味
カトリックは「まわらない」ってどういうこと?
洗礼を受けてから数年経ちますが、時々、ふと「自分、まだ分かってなかったかも」と思うことがあります。
当時参加していた講座では、所属教会では触れなかったテーマにも触れられたり、違う視点から説明されることもあって、毎回とても興味深い内容でした。
その講座では2年ほど、海外出身の個性的でお茶目な神父様たちに教えていただいていたのですが、ある日の雑談で、つい冗談でこう言ってしまったのです。
「生まれ変わったら、○○になりたいな〜!」
すると神父様がニヤリとしながら、
「残念だね、カトリックはまわらないよ(輪廻転生しないよ)」
と。
えっ!? そうなの? と驚く私に、
「知らなかったの? 洗礼前の勉強でその話は出なかった?」
と、神父様は目をまんまるにしておられました。
……うちの神父様、その話はしてなかった。(と思う^^;)
死後の世界について、実は初耳だった
思い返せば、洗礼前の勉強は神父様に教えてもらう講座のほかに、修道院でのシスターとの勉強会も参加していましたが、「輪廻転生」の話題は出なかったように思います。
罪や天国・地獄については何となく聞いたことがありましたが、他宗教の死生観と比べるような話は特になく……。この神父様の一言で、急に興味が湧いてきました。
「カトリックはまわらない」って、どういうこと?
じゃあ他の宗教はどうなの?
本当に「前世」ってないの?
ちょっと調べてみたくなったのです。
輪廻転生って、どこから来たの?
輪廻転生(りんねてんしょう)という考えは、日本では仏教の教えとして知られていますが、もともとは ヒンドゥー教の思想から来ているそうです。
サンスクリット語では「संसार(サンサーラ)」、英語では「Reincarnation(リインカーネーション)」。日本語では「転生」「輪廻」「生まれ変わり」などと訳されます。
この思想では、人は死んでも終わりではなく、何度も別の生命として生まれ変わるとされています。しかも人間だけではなく、動物にも、時には虫や微生物にも——。
だから「前世はミジンコだったかも?」という話にもなるんですね。
(それってちょっとロマン……ある? ない?)
キリスト教に「前世」はない
一方で、カトリックを含むキリスト教には、「輪廻転生」という考えはありません。
つまり、「前世」や「来世」といった考え方そのものが存在しないのです。
ただし、初期のキリスト教には、輪廻に近い考え方があったとも言われています。実際に、553年の第五コンスタンティノープル公会議では、そういった思想が明確に否定されました。
それ以降、キリスト教(特にカトリック)では、「人間は一度だけ生まれて一度だけ死ぬ」という考えが基本となっています。
「復活」って、輪廻とどう違うの?
キリスト教でよく出てくるのが「復活」という言葉。
イエス・キリストも復活したと言いますし、信者も「最後に復活する」と言われます。
でも、これは「別の存在として生まれ変わる」わけではなく、自分自身の体と魂が再び結びつくという意味です。
つまり、「ミジンコに転生」みたいな話ではありません(笑)
カトリックでは、死んだらどうなるの?
では、カトリックでは人が死んだらどうなるのでしょうか。
死ぬと、魂は肉体から離れ、まず 「私審判(ししんぱん)」 を受けます。
神様がその人の一生を見て、どこへ行くかを決めるのです。
- 神を信じ、良い行いをした人 → 天国へ
- 神を信じず、悪いことばかりした人 → 地獄へ
- 信じてはいるけれど、まだ罪が残っている人 → 煉獄(れんごく)へ
この煉獄という場所が、ちょっと独特。
煉獄は「魂の洗濯機」?
煉獄は、天国へ行く前に罪をあがなう場所です。
私は勝手に、「魂の洗濯機」と呼んでいます。
洗濯板でゴシゴシ、ガンガン、罪という名の汚れを落とされて、ようやくピカピカになったら天国へ行ける……そんなイメージです。
(あんまり長居したくはないですが^^;)
「最後の審判」で何が起こるの?
さらに時間が経ち、この世界の終わりがやって来ると、「最後の審判(さいごのしんぱん)」が行われます。
このとき、死んだ人の体が復活し、魂と再び結びつきます。
つまり、魂だけでなく「体ごと」審判を受けるということです。霊だけでふわふわ〜っと審判を受けるのではなく、ちゃんと(?)肉体とセットで並ぶわけですね。
だから、もともとは火葬ではなく土葬が基本だったのも納得です。
……でも、日本は火葬が一般的。「じゃあ、体のない私たちはどうやって復活するの?」と思わず心配になりますが、そこは神様の全能パワーにお任せするしかなさそうです^^;
最後の審判ではすべての人がキリストの前に集められ、
その行いによって——
- 永遠の幸福(=天国)へ導かれる人
- 永遠の苦しみ(=地獄)へ落とされる人
に分けられます。これは「公審判」と呼ばれます。
この世の終わりと「審判」という考え
この「最後の審判」は、実はカトリックだけのものではありません。
ゾロアスター教や、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教といった「アブラハムの宗教」に共通する終末思想なのです。
それぞれの宗教で細かい違いはありますが、
この世の終わりに、神によって善悪の最終審判が下される
という考えは共通しています。
私は「煉獄行き」かな……
……と、ここまで調べてみて思ったのは、
地獄も煉獄も、できれば避けたいなぁ、ということ。
とはいえ、私自身はというと、
「人に迷惑はかけていない……つもりだけど、良い行いと言えるかは微妙」
「信仰心はあるけれど、まだまだ勉強中……」
なので、今のままだと天国は難しそうです(笑)
せめて「魂の洗濯タイム」が短く済むように、
今日もぼちぼち、地道にがんばります。
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