カトリック初心者の日々 〜キリスト教は輪廻転生しない〜

私は洗礼を受けた後、所属教会とは違う、別の教会の勉強会に参加していました。まだまだ分からないことがある私は、「入門講座」に紛れ込んでいたのです。そこの入門講座は洗礼を受けた信者も、別の教会に所属していても参加することが出来ました。
少人数のこの講座は、これから洗礼を受ける人と、受けた人が一緒に和気藹々と行われていました。

カトリックはまわらない

その講座では、私が所属教会で洗礼前に受けた「入門講座」では話されなかったこともあったり、別の角度から解説されると理解が深まることもあって、とても興味深いものでした。
そこでは2年ほど、2人の神父様から教わりましたが、どちらの神父様も某アジアの国からやってきた、独特のキャラが楽しい神父様でした。

さて、ある日の講座が始まる前の雑談中に、生まれ変わったら○○になりたいなぁ〜という冗談を言ったところ、神父様が「残念だね、カトリックはまわらない(輪廻転生しない)よ」と言われました。
私が「えぇ〜、そんなぁ」と言うと、神父様は
「知らなかったの?洗礼前の勉強でその話はなかった? 👀 」と目をまん丸くしました。

……うちの神父様、その話はしていなかったなぁ💦

洗礼を受ける前、神父様との勉強会の他に、時々、修道院で行われるシスターとの勉強会にも参加していましたが、この話題は出なかったので、私にとっては初耳でした。罪や天国・地獄の話は出たことがありますが、キリスト教の死生観を他の宗教と比較する機会はなかったと思います。

それは、私にとっては興味深いことだったので、ちょっと調べてみることにしました。

輪廻転生はヒンドゥー教から

輪廻転生は仏教の思想のひとつですが、元々はヒンドゥー教の概念で、釈迦以前の時代から存在していました。サンスクリット語で संसार (saṃsāra:サンサーラ)、英語で Reincarnation と言い、転生、輪廻、輪廻転生、生死などと訳されます。
仏教やヒンドゥー教の「輪廻転生」は動物を含めた広い範囲で人間は生まれ変わると言う概念です。なので「前世はミジンコ」などという話にもなるのですね。……と言うことは、輪廻転生のないキリスト教では「前世」という概念もないと言うことになります。(うーん、ちょっとさびしい)

色々と調べてみると、初期のキリスト教会には輪廻思想があったと言う情報もあります。553年の第五回コンスタンティノーブル宗教会議以前は、輪廻転生が語られていたそうですが、現在のキリスト教に輪廻転生の概念は存在していないということです。

キリスト教には「復活」という言葉がありますが、これは「輪廻転生」とは違う概念のようです。「復活」は、別の人に「生まれ変わる」ことではないので、確かに輪廻転生とは違います。

カトリックでは、人間は死んだらどこに行くのか?

カトリックでの「死」は、魂が肉体から離れて神様のもとへ行くこととされています。肉体から離れた魂は、神様の審判を受けて天国か地獄、煉獄へ行きます。これを「私審判」と言います。
神様を信じてよい行いをしていれば、その魂は神様のいる天国へ行きます。けれど、神様を信じず悪いことばかりしていた魂は、憎しみと恨みが渦巻く地獄に行くことになります。
では、神様を信じているけど、罪のある魂はどこへ行くのか?と言うと煉獄に行きます。煉獄は苦しみによって罪をあがなう場所です。そこで十分に罪をあがなったら、天国へ行きます。
私はこの煉獄を「魂の洗濯場所」だと思いました。罪で汚れた魂を、洗濯板で容赦なくごしごしやられて、きれいになってから天国へゆけるのね、と。

そして、最後にこの世が終わり「最後の審判」が行われる時、死者の体は蘇り、魂は再び肉体を持って「永遠の幸福」か「永遠の苦しみ」に入ります。この「最後の審判」の時に肉体が必要なのでキリスト教では土葬が基本になっています。日本を含め、火葬しなければならない国の魂は、蘇る肉体がなくなっちゃうけど、大丈夫なのかしら〜?
最後の審判の時、煉獄はなくなり、魂と肉体を持った人々は審判者であるキリストの前に並んで、善人と悪人とに分けられます。そして、善人は永遠の幸福である天国に導かれ、悪人は永遠の苦しみである地獄に落とされます。
最後の審判は公に行われるので、「公審判」と言われます。

この「最後の審判」は、ゾロアスター教と「アブラハムの宗教」と言われるユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通する終末論的世界観です。宗教や教派によって少しずつその概念は違いますが、この世の終わりに生前の行いが審判され、天国に行くか地獄に行くかを決められると言うものです。

地獄も、煉獄も嫌だなぁ、と思ってしまう私ですが、天国に行くには生きている間の行いと信仰心が大切です。人に迷惑をかけないように生きてはいるつもりですが、良い行いができているかは疑問ですし、信仰心もまだまだとい感じの私。せめて「煉獄」での「洗濯タイム」が長引かないような生き方をしたいものです。