グレゴリオ聖歌オタクの美学― ネウマとともに祈る ―

私がグレゴリオ聖歌に出会ったのは、まったくの偶然でした。
まだカトリック教会に通いはじめたばかりで、洗礼の勉強を始めるかどうかという頃。
なんとなく再生したオンデマンドの“ヒーリング音楽”の中から、
聞いたことのない不思議な響きが流れてきたのです。

ラテン語の響き。静かに揺れるような旋律。
それは、どこか懐かしく、けれど遥か遠い場所から届いた祈りのようでした。

「え、なにこれ…、絶対これ、私も歌いたい」

その瞬間、胸の奥にズギューンと何かが刺さりました。
音楽なのに、まるで祈りそのもののようで。
その一音一音に、何か崇高なものが宿っているように感じたのです。

それが、私とグレゴリオ聖歌との出会いでした。
それからというもの、私はこの音楽の「静かな熱狂」に魅了され、
今もなお、ネウマの形を追いかけ続けています。

歌というより「祈りに寄り添う」

グレゴリオ聖歌に出会ったとき、私は驚きました。
五線譜のように音を並べていない。
拍も、リズムも、厳密にはない。
けれどそこには、「神の沈黙に耳を傾けるための構造」があった。

祈りの言葉に音を添えるのではなく、
言葉が音となって神に立ち上る。
それが、グレゴリオ聖歌の本質だと感じています。

ネウマとは、まさにその「立ち上る息」を記すものであり、
その一筆一筆に、無名の修道士たちの祈りと沈黙が宿っています。
私はネウマ譜を読むとき、楽譜を「見る」のではなく、「聞く」のです。
そこに残された、目に見えない祈りの余白を。

なぜ歌えないことが、こんなにも切ないのか

現代の教会では、グレゴリオ聖歌を耳にする機会はそう多くありません。
典礼は母国語で行われ、聖歌も現代的な旋律が主流です。
それが悪いとは思わない。多くの人にとってわかりやすく、親しみやすいことは大切です。

でも、どうしても心が求めてしまうのです。
あの、ラテン語の音の粒と、音楽と祈りが一体となったような空気。
ふと流れる「Pater Noster」の響きに、
教皇ミサの映像に、
抑えがたいほど「歌いたい…」という感情があふれてしまう。

それはたぶん、「古いものへの郷愁」ではなく、
「祈りのかたちへの信頼」なのだと思います。
教会が千年以上の時間をかけて守ってきたその響きに、
私は、言葉にならない祈りをゆだねたいのです。

伝統を守るとは、執着ではなく「感謝のかたち」

私はまだまだ未熟です。
音程も不安定で、詩篇も間違えます。
それでも、なぜこんなにもグレゴリオ聖歌に惹かれるのか。

それは、「わたしが歌いたいから」ではなく、
「この祈りを、未来に届けたいから」なのかもしれません。
千年前の修道士たちが、神にささげた一音一音。
それが今も、どこかで誰かの祈りとなって響いている。

その繋がりの中に、自分も連なっていたい。
だから私は、譜面を読み、音を探り、
たとえ実際に歌えなくても、心の中で歌い続けているのです。

おわりに|ネウマは、私にとっての祈りの道標

ネウマを読むと、心が静かになります。
そのカーブの一つひとつに、
祈りの所作や、典礼の深さを思い出すからかもしれません。

グレゴリオ聖歌は、カトリック教会の伝統です。
けれど私にとっては、それ以上に、
「祈りに向かう自分を取り戻す」手がかりでもあります。

祈りとは、誰かに評価されるものではないし、
舞台で披露するものでもない。
それは、静かに神の前に立つこと。
ネウマは、私をその静けさへと導いてくれます。

だから私は今日も、祈りのように譜面をなぞりながら、
「いつか、また歌えますように」と願うのです。