信者歴10年、まだ初心者!?〜成人洗礼者の焦りと開き直り〜

教会に通い始めたばかりの頃。
ミサ中の 立つ・座る・跪く のタイミングであたふたし、
祈りの言葉も カンペ必須、
教会用語は 聞いたそばから忘れ……。
一方、まわりには何十年も信仰を歩んできたベテラン信者さんたちが。
祈りも自然、振る舞いも落ち着いていて、
「生まれたときから信者です」オーラがにじみ出ています。
心の中で思っていました。
「あの域には、たぶん死ぬまでたどり着けない…」(いや、多分死んでも無理……^^;)
焦っても届かない!? あの“信仰レベル”との距離感
信者10年目の今でも、ふと思うのです。
「あの方たち、やっぱすごいな……」と。
ミサ後のお祈りや、グループでの集まりのあとに自然と出てくる祈りの言葉、
典礼の流れや季節ごとの習慣にスッと対応する柔軟さ。
さらには、
「若いころは○○神父様の黙想会によく行ってたわよ〜」
なんていう懐かしトークまで飛び出す始末。
一方こちらはというと……
- 「えっ、聖金曜日ってミサじゃないやつだったよね…?」
- 「ミサでお香が焚かれるとちょっとワクワクしちゃう✨」
そんな“信者観光客”感が、なかなか抜けません。
さらに、グループの集まりで
「じゃ、どなたか締めくくりのお祈りを」
というお姉様方の言葉に、下を向いて目を合わせないようにする始末……。
「信者らしい祈りの言葉」なんて、とても思い浮かびません。
そうなるとやっぱり、心の中でつぶやいてしまうのです。
「こんなにグダグダでいいのかな……」
「もっとちゃんとしなきゃいけないのかな……」
ゆる信仰、でも神様はちゃんと見てる(はず)
でもある日ふと思いました。
「焦っても、追いつけないのが現実じゃない?」
そもそも、信仰って「先輩に追いつく」ためのものではないし、
神様だって、
「何年目だからこのレベルに達していてください」
なんて、たぶん思ってない(と思いたい)。
ベテランさんたちは、
それぞれの人生の中で信仰を深めてきた歴史を持っていて。
私たち成人洗礼者は、ある日突然その旅路に合流した存在。
だからこそ、
「途中参加組なりの楽しみ方・付き合い方があっていい」
と思うようになりました。
「え、ずっと信者でしたよね?」な人たち
でも実は、同じ成人洗礼組の中でもけっこう“個人差”があることに気づきます。
中には洗礼を受けてまだ数年なのに、
祈りの言葉も所作もまるで、
「生まれたときから信者でしたけど?」
みたいな雰囲気の方も。
祈りのときも迷いがないし、信者トークにもついていける。
思わず聞きたくなります。
「その落ち着いた“信者力”、どこで手に入れたんですか…?」
きっと熱心に勉強されたり、信仰に真剣に向き合ってこられたのでしょう。
成人洗礼者だからといって、みんなが“ゆる組”というわけではないんですよね…
でも一方の私はというと——
「熱心に勉強」よりも「ゆっくり、楽しく」がモットー。
そんな信仰スタイルの、ゆる〜い“マイペース信者”です。
つまり、
成人洗礼者=ひとくくりでは語れない。
同じ「旅の途中」でも、歩き方はいろいろあるのだと思います。
成人洗礼組の「ちょっとお得(?)」な楽しみ方
成人洗礼者ならではの「信仰ビギナーの特権」も、けっこうあるんです。
- 聖書を読むと何もかも新鮮(そしてよくわからない)
- 伝統的な行事がイベント感覚でちょっと楽しい
- 「信者らしいこと」がまだ新鮮なので、やる気だけはある
- 知らないことが多い=学べる喜びも多い
- ベテラン信者さんが優しく教えてくれると、うれしさ倍増!
これって、ある意味「おいしいところだけ味わえる」
そんな恵まれた時期なのかもしれません。
……まあ、さすがに10年も経つとちょっとは落ち着きますが^^;
信仰は旅 だからマイペースでも、大丈夫
信仰って、毎日が「また歩き出す」旅のようなもの。
寄り道しても、足踏みしても、時々迷子になっても、
ちゃんと神様は待っててくれる。
成人洗礼組の歩みって、たぶんずっと“見習い感”満載で、
ちょっと不格好。でも、それが私たちらしさなのかもしれません。
神様と一緒に、一歩ずつ。
焦らず、比べず、そしてときどき笑いながら。
もしかすると、あなたの「見習い感」も、
誰かの励みになっているかもしれません。
神様との旅路、自分のペースで、大切に歩いていきましょう。