四旬節、「歌わない理由」を説明できない問題

四旬節に入ると、教会の空気が少し変わります。
なんとなく静かで、少し重たくて、色味まで落ち着いた感じになるあの季節。
まず消えるのが、Gloria(栄光の賛歌)。
そして、Alleluia も消えます。
信者としては
「うん、そういうものだよね」
と何の疑問もなく受け入れているのですが――
ある日、思わぬところから質問が飛んできました。
「え?今、グロリア歌わないよね?」
かなり前の話ですが、当時仲良くしていたアングリカンの司祭(アメリカ人)と話していた時のこと。
四旬節のある日、
「久しぶりにグロリア歌ったわ〜」
と何気なく言ったら、
「え?今の時期、歌わないよね?
なんで歌ったの?」
と、かなり真顔で詰められました。
……あれ?
歌った理由は、ちゃんとある。
四旬節中は歌わないけど、聖週間に一度だけ復活する日がある。
確か、聖木曜日だったはず。
でも、その「なぜ?」を言葉にしようとした瞬間、
頭の中が真っ白になりました。

えっと……その……決まりだから……?
完全にアウト。
四旬節にGloriaを歌わない理由(ざっくり)
あとから落ち着いて調べて、ようやく言語化できました。
四旬節は、
悔い改めと準備の季節。
Gloria は、天使たちの喜びの歌。
復活の先取りのような、明るく祝祭的な賛歌です。
だから四旬節では、
あえてそれを封印する。
その沈黙があるからこそ、
復活祭のGloriaが、あれほど「戻ってきた!」と感じられる。
……理屈は分かる。
でも、当時の私は答えられなかったのです。
聖週間に一度だけGloriaが復活する理由
ちなみに、四旬節の間ずっと封印されていたGloriaですが、
聖週間に一度だけ、突然帰ってきます。
それが、聖木曜日(主の晩餐の夕べのミサ)。
この日、Gloriaが始まると同時に、教会の鐘を鳴らすこともできます。
そして、その後は復活徹夜祭まで、鐘は再び沈黙。
この一度きりのGloriaは、
- 四旬節の終わり
- 受難の始まり
- そして復活への直前
という、境目のしるしでもあります。
「もうすぐ一番大事な出来事が始まるよ」
という合図のようなもの。
だから、
四旬節中は歌わない。
でも、ここだけは歌う。
この“例外”があるからこそ、
Gloriaの重みと喜びが、より際立つのです。
じゃあ、アングリカンではどうなの?
ここで、あの時の疑問に戻ります。

「え?今の時期、Gloria歌わないよね?なんで?」
実は、アングリカン(聖公会)では、
聖木曜日にGloriaを歌わない教会も多いそうです。
つまり、
- カトリック:
四旬節は歌わない → 聖木曜日だけ歌う - アングリカン:
四旬節は歌わない → 聖木曜日も歌わない場合がある
同じキリスト教でも、
典礼の“盛り上げどころ”の置き方が少し違う。
私が「久しぶりにGloria歌った」と言った瞬間、
相手が「え?」となったのは、
実はかなり自然な反応だったわけです。
……が、その時の私は、
そんな違いを説明できるほど整理できていなかった。
悔しい。
Alleluiaが消えて、Tractusが来る
四旬節の主日で、もう一つ気分が変わる瞬間があります。
Alleluia → Tractus(詠唱)。
この切り替え、地味ですが、体感的にはかなり大きい。
Alleluiaは跳ねる。
Tractusは、落ちる。
歌っている側としては、
「はい、来ました。四旬節です」
と体に直接伝わってくる感じ。
正直に言うと、気分はちょっとドーンとします。
聖歌も暗くて痛そうな曲が増えるし。
でも、それも含めて四旬節。
明るくならないこと自体が、意味を持っているのだと思います。
なぜか当たる、四旬節の先唱当番
ここ数年、
四旬節の最初の主日になると、なぜか先唱当番が回ってきます。
今年も例外なく。
「ああ、またあれか……」
Tractusを先唱する時の、あの独特の緊張感。
派手さはないけれど、ごまかしが効かない感じ。
たぶん、信仰的にはとても正しい。
でも人間的には、ちょっと重い。
そんな気持ちを抱えながら歌う四旬節の詩篇は、
いつもより少しだけ、自分に返ってくる気がします。
分からなくても、体は覚えている
Gloriaを歌わない理由。
Alleluiaが消える意味。
Tractusが持つ役割。
全部を完璧に説明できなくても、
私たちは毎年、同じ時期に同じ変化を体で受け取っています。
歌わない。
静かになる。
待つ。
四旬節は、
「理解する季節」というより、
「体験して覚える季節」なのかもしれません。
あの時、詰められて答えられなかった私も、
今なら少しだけ言葉にできます。
たぶん、また来年も
「Gloria、歌わないな」
「Alleluia、消えたな」
と思いながら、同じように歌うのでしょう。
そしてそれで、ちゃんと四旬節を生きている。
そう思っています。


