グレゴリオ聖歌|四旬節が進むと音楽はどう変わる?聴き比べてみた

四旬節に入ると、ミサの雰囲気が一気に変わります。
紫の祭服、アレルヤの不在、花のない祭壇。
そして、音楽も静かに、でも確実に変わっていくのです。
なんとなく
「四旬節=暗い音楽」
というイメージを持っている方も多いかもしれません。
でも、グレゴリオ聖歌をよく聴いてみると、実は四旬節の音楽は
最初からどん底、ではありません。
むしろ、少しずつ、段階的に“沈んでいく”ような変化をしています。
今回は、四旬節の代表的なグレゴリオ聖歌を例に、
四旬節が進むにつれて音楽の色がどう変わっていくのかを、
オタク目線+あるある込みで見ていきたいと思います。
四旬節初期|あれ?思ったより明るい?
四旬節の定番といえば、まず思い浮かぶのが Attende Domine。
「暗い」と思って聴くと、ちょっと意外かもしれません。
「主よ、私たちを顧みてください」という悔い改めの歌なのですが、
初めて聴くと、こう思う人も多いはず。

あれ?
四旬節の歌って、もっと暗いと思ってたけど?
旋律は意外と素直で、重苦しさは控えめ。
よく言われるように、暗いというより“懇願”に近い雰囲気です。
モード(旋法)も比較的明るさを感じるものが多く、
まだ「希望の余白」が残っている感じ。
四旬節の入り口は、
いきなり突き落とすのではなく、立ち止まらせる音楽なのだな、と感じます。
四旬節中盤|少しずつ重心が下がる
四旬節が進んでくると、歌われる聖歌も変わってきます。
たとえば Parce Domine。
同じ悔い改めのテキストでも、Attende Domineより一段、重みがあります。
フレーズは長く、テンポも自然と落ち着き、
歌っていると、呼吸が深くなる。
あるあるなのが、

あれ?
さっきより息が長くない?
という感覚。
音楽が、外向きというより、
内側へ、内側へと引き込んでくる段階です。
アレルヤ消失後|気分がドーンとする理由
四旬節の象徴といえば、やはり アレルヤが歌われなくなること。
その代わりに現れるのが Tractus(トラクトゥス) です。
旋律は装飾が少なく、淡々と続き、
喜びの跳躍はほとんどありません。
四旬節らしさが一気に加速するポイントです。
正直に言うと、

ああ、来たな……この感じ
と思う人も多いはず。
でもこれは「暗くしたい」からではなく、
余計な高揚をそぎ落とすための音楽。
気分がドーンとするのは、
音楽がちゃんと四旬節している証拠でもあります。
聖週間|ほぼ闇、でも異様に美しい
歌うというより「身を置く」音楽
聖週間に入ると、音楽はさらに静まり返ります。
嘆きの聖歌(Lamentationes Jeremiae)やテネブレの世界は、
もはや「歌う」というより「身を置く」音楽。
▼ Incipit Oratio Jeremiae Prophetae | Gregorian Chant
明るさはほぼありませんが、
その代わり、異様なまでの美しさがあります。
しんどいけど、目(耳)を離せない
そんな感覚。
四旬節の音楽は、最後まで一貫して
感情を煽らないのに、
心の奥には確実に届いてくるのが不思議です。
Tenebrae(テネブレ)って何?──日本ではあまり体験できない“闇の典礼”
四旬節の音楽を調べていると、必ず出てくる言葉があります。
それが Tenebrae(テネブレ)。
ラテン語で「闇」「暗闇」という意味を持つ言葉で、
聖週間(特に聖木曜日・聖金曜日・聖土曜日)に行われていた、非常に厳粛な典礼です。
……なのですが。
実は、日本のカトリック教会では
Tenebraeの典礼そのものは、ほとんど行われていません。
私自身も、いまだに実体験なし。
名前と音楽だけ知っている、ちょっと幻感のある典礼です。
Tenebraeはどんな典礼?
Tenebraeは、もともと
- 夜明け前
- 教会を暗くした状態で
- 詩篇と朗読を淡々と重ねていく
という、とにかく静かで、重くて、長い典礼。
特徴的なのは、
ろうそくを一本ずつ消していく演出です。
祈りが進むにつれて、
光が一つずつ消えていき、
最後にはほぼ完全な闇。
復活を前にした
「神が沈黙している時間」を、
視覚と音楽で体験させる典礼、と言われています。
正直、現代の日本の教会事情(時間・人手・体力)を考えると、
なかなか実施が難しいのも納得です。
音楽が、とにかく重い。エレミヤの哀歌
Tenebraeと切っても切れないのが、
エレミヤの哀歌(Lamentationes Jeremiae)。
これがもう……
暗い。
長い。
救いが見えない。
でも、異様に美しい。
▼ Tenebrae Lamentations | Holy Thursday | Gregorian Chant
旋律は抑制されていて、
感情を煽るような盛り上がりはほとんどありません。
それなのに、
どーんと胸に来る。
「慰めてほしい」より先に、
「ただ、ここに座って聞け」と言われている感じ。
正直、軽い気持ちでは聴けません。
でも、この“重さ”こそがTenebrae。
エレミアの哀歌
旧約聖書に収められた、預言者エレミヤがバビロン捕囚によるエルサレム滅亡を嘆いた詩歌。
「ああ、かつては、人にあふれていたのに、ひとりきりですわるこの町よ」など、崩壊した都の様子と神への訴えが涙とともに歌われている。
Quomodo sedet sola civitas…
ああ、かつて栄えた都は、今は独り座している
というの出だしが有名。
- Incipit Oratio Jeremiae Prophetae
→ 哀歌の前後や別の文脈で歌われる導入・祈り的テキスト
→ 深呼吸して、心を沈める時間
→ 「これから重い話をしますよ」という静かな前振り - Lamentationes Jeremiae
→ Tenebrae(暗闇の典礼)の中心的朗読歌
→ 本編
→ 容赦なく叩きつけられる現実と嘆
→ 有名・重い・長い・美しい
どちらも暗くてドーンと来るけど、
「物語の本編」か「祈りとしての導入」か、という違いがある。
なぜ日本ではあまり行われないの?
理由はいくつかあります。
- 典礼が長く、準備も大変
- 夜〜早朝の時間帯
- 音楽的にも専門性が高い
- 信徒数・聖歌隊の体制的に厳しい
そのため、日本では
- 聖金曜日の典礼
- 聖週間の黙想会
- コンサート形式
などで、部分的に音楽だけ触れる機会はあるかも、と言う感じ。
(修道院などでは行われているかもしれません)
だからこそ、
動画や音源で触れるTenebraeは、
「知らなかった世界をのぞき見る」体験でもあります。
体験したことはないけれど、惹かれてしまう理由
私はTenebraeの典礼そのものを体験したことはありません。
でも、音楽を聴くたびに思います。
ああ、これは
「理解する」音楽じゃなくて身を置く」音楽だな、と。
四旬節の最後に、
ここまで徹底的に“闇”に沈むからこそ、
復活の光が際立つ。
理屈ではわかっているのに、
毎年ちゃんと圧倒されます。
四旬節の音楽は、最後にここまで沈む
Tenebraeを知ると、四旬節のグレゴリオ聖歌が
少しずつ色を失っていく理由が、よりはっきり見えてきます。
- 明るさを抑え
- 装飾を削ぎ
- 最後は、ほぼ闇
そこまで沈んで、
ようやく復活へ。
四旬節の音楽は、
やっぱりただ「暗い」のではなく、
意味のある沈黙なのだと思います。
まとめ|四旬節の音楽は“グラデーション”
四旬節のグレゴリオ聖歌は、
- 最初は意外と明るく
- 中盤で重心が下がり
- 後半で静かに沈んでいく
という、とても丁寧なグラデーションを描いています。
「四旬節=暗い音楽」ではなく、
四旬節=少しずつ色が抜けていく音楽。
そう思って聴くと、
Attende Domineが明るく感じる理由も、
Tractusで気分がドーンとする理由も、
ちょっと腑に落ちるかもしれません。
四旬節、しんどい季節ですが、
音楽を通してたどると、案外奥深くて面白い。
そんなことを、グレゴリオ聖歌は静かに教えてくれます。


