“フライング・ブラボー”が残念な理由 — 沈黙に宿る、音楽への敬意

「最後の音が消える前に叫んじゃったブラボー」——あなたも一度は聞いたことがあるかもしれません。
名フィルの公式投稿が話題になった今回の出来事。
でもちょっと待ってください。
その“静寂”こそ、音楽が一番美しく響く瞬間なのかもしれません。
オーケストラが悲しんだ「フライング・ブラボー」事件
先日、名古屋フィルハーモニー交響楽団(名フィル)さんの公式SNS投稿が話題になりました。
内容をざっくり言うと——
「終演直後の早すぎる『ブラヴォー』はうれしくありません。
それより“完璧な静寂”の方が、ずっと嬉しいです。」
という、異例の“失望表明”でした。
あ〜、わかります!
「いるよね、フライング・ブラボー。」
最後の音が消えたか消えないかの絶妙なタイミングで、
「ッブラァーボォーッ!」と叫ぶあの声。
まるで「私が一番乗りだ!」という気迫。
でもその瞬間、会場の空気はちょっと凍ります😅
私はよく知らない曲のときは、拍手すら周囲を見てから始める小心者。
歌のコンサートでも、ちょっとした間を「終わり」と勘違いして
フライング拍手をしてしまう人を見ると、
心の中でそっと手を合わせてしまいます(合掌)。
名フィルの演奏者や指揮者が「え、まだ終わってないよ…」と感じた気持ち、
よくわかります。
では、彼らが求めた“静寂”にはどんな意味があるのでしょう?
静寂もまた「音楽」の一部です
フライング・ブラボーが嫌われる最大の理由——
それは「余韻」を壊してしまうからです。
作曲家は、最後の音が消える“その瞬間”まで計算しています。
指揮者も、響きが完全に消え、
ホールに聴衆の呼吸だけが残るまで、
じっと静止したまま。
あの数秒間の静寂は、ただの「間(ま)」ではありません。
それは演奏家たちが命を削って生み出した音楽が、
聴く人の心に染み込み、
魂と対話するための神聖な時間なのです。
たとえるなら、
感動的な映画のエンドロールが流れている途中で
誰かが「いや〜最高だった!」と叫んでしまうようなもの。
……ちょっと残念ですよね。
もちろん、早く「ブラボー!」と言いたくなるのは
心から感動した証拠です。
でもその熱が、「自分を目立たせたい」という方向に向いてしまうと、
せっかくの感動が少しもったいない。
本当に美しい“ブラボー”は、愛と敬意の中にある——
私はそう思うのです。
教会の「沈黙」に学ぶ、“待つ”という美学
ここで少し、教会の世界に話を移しましょう。
ミサや典礼では、「沈黙」がとても大切にされています。
聖書朗読のあとにある短い沈黙。
これは「ただ黙っている」時間ではありません。
神の言葉を心に受け止め、
静かに祈り、神様と向き合う積極的な沈黙なのです。
これって、クラシックの“余韻”とすごく似ていると思いませんか?✨
ミサの最後に司祭の祝福を受けて「アーメン」と応えるように、
「ブラボー!」もまた、演奏が完全に終わり、
心が静けさで満たされたあとに
皆でひとつの思いで発するものではないでしょうか。
「神様、沈黙しないでください!」(詩編83:2)と叫ぶこともありますが、
人の魂は、沈黙の中でこそ
ほんとうの感動を受け取るのかもしれません。
愛ある「ブラボー」は、拍手の波に乗って
「ブラボー!」という言葉は、
イタリア語で“素晴らしい”を意味する最高の賛辞。
だからこそ、その一言はベストなタイミングで届けたいですね。
💐愛ある「ブラボー」の作法
- 静かに待つ
指揮者がタクトを下ろし、
最後の音がホールの隅々に消えるまで待ちましょう。 - 静寂を味わう
数秒の“完璧な静寂”の中で、
音楽が心に刻まれていくのを感じます。 - 拍手とともに
周りから拍手が起こったら、その波に乗って——
心からの感謝を込めて「ブラボー!」を✨
誰よりも早く声を上げるより、
皆と一緒に感動を共有する時間を大切に。
その「待ち方」の美しさこそが、
演奏家への最高の敬意であり、
音楽そのものへの愛の表現ではないでしょうか🎶


