「生きる」ということ

先日、入院している父の容体が急変したと連絡があり、数日間、仕事を休んで実家のある田舎に帰っていました。
新型コロナの感染第2波か?と言う中で、長距離を移動するのは憚られましたが、緊急事態なので仕方がありません。

父は、母が亡くなって間も無く、脳出血で倒れて意識が戻らないまま、もう2年ほど入院しています。

当初は数日の命、と言われていましたが持ち直して今に至ります。緊急事態宣言前にも一度「危険な状態」と言われ、病院に駆けつけた事がありましたが、その時も持ち直しました。

そして、今回も持ち直しました。

正直、嬉しいのか悲しいのか、何故だかよくわかりません。

父は、いわゆる「植物状態」です。意識もなく鼻から栄養を入れられて眠っている、そんな状態です。
今回は、たんが詰まって呼吸が困難になり、一時的に危険な状態になったようです。

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「生きている」か「生かされている」のか

私が病院に行った時、父には、酸素を体に送るための機械が2つけられていました。

私は、そんな父がとてもかわいそうに思えました。こんなに機械に繋がれてまで「生かされる」なんて、と。

生前、父は一切の「延命措置」や「生命維持措置」を拒否する文書を作っていました。日本尊厳死協会というものがあって、そこの会員になって、自分が植物状態になってしまった時にどうしたいかの意思表示をしていました。

私はその書類を病院に提出したのですが、「延命措置」の拒否はできても、今の日本の医療では「生命維持措置」を止めることは難しい、というか不可能に近いようです。

身内が私だけなら、医師に父の意思を強く伝えるところですが、父の兄弟もいるので、そんなことを言えば「血も涙もない娘」と言われるでしょう。

果たして、今、父は幸せなのだろうか?苦しくないのだろうか?と思います。

コロナの影響で、面会が制限されていたので久しぶりに父の姿を見たのですが、また一回り小さくなっていて、本当に悲しくなりました。

こんなにまでなって「生かして」ごめんね。生きていてくれてありがとう。そんな気持ちが混じって、ただただ、悲しい気持ちになります。

本人が今どう思っているのかは分かりません。どんな状況でも生きていたいと思っているかもしれないし、生前の言葉通り「もうさっさと旅立たせてくれ」と思っているかもしれません。

医療が進んでいない昔なら、父はもう2年前に天国に旅立ったはずです。それが父の寿命だったと思います。

好きな畑仕事をして家に戻って倒れて、それっきり。
母と同じように「好きなことして、倒れてそれっきりがいい」と言っていた父の望み通りの最後だったでしょう。

私の考え方が冷たいと言われるかもしれませんが、延命措置も生命維持措置もせず、父の望み通り旅立たせてあげたかった、とすら思います。

生前、父の知り合いが同じように植物状態で4年ほど入院していました。お見舞いに行くたびに父は「あんな風にはなりたくない。周りに迷惑かけたくない」と言っていたのを、今も覚えています。

素敵な夢の中にいてほしい

父の入院している病院は、同じような患者さんばかりです。父と同じ部屋にはいつも4人くらい意識のない人たちが眠っています。

それは、すごく、悲しくなる風景です。
子供や若い人なら意識回復の望みもあるでしょう。けれど、その部屋の人たちは、回復の望みがないまま、ただ管に繋がれて生かされ、そして死を待つ人たちです。

誰かがお見舞いに来ているのを、私は未だに見たこともありませんが、きっと、あんな風に眠っているだけの家族を見るのは辛いのでしょう。

私も父が、何も感じていないのかどうかわかりません。辛くないだろうか?苦しくないだろうか?そんなことを考えてしまいます。

もしかすると、父の魂は体を離れて、自由にあちこちに行っているかもしれません。そして、眠っているだけの自分を見て「困ったなぁ」と思っているかもしれません。

私は、父が楽しい夢の中にいてくれたら、と思います。人生の中で一番幸せで楽しい頃の夢の中にいてほしい、と。そして、楽しい夢の中からそのまま穏やかに天国に旅立ってほしい、と。
……もっとも、父も無宗教で天国を信じてはいませんが、きっと母のいる「お花がいっぱい咲いているところ」に行くのだろうな、と思います。

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コラム

Posted by Francesca