赦すことと、心を守ること — 教会での出来事から

教会は、祈りと平和が満ちた場所。
そう思っていた私の中に、最近そっと波風が立ちました。

「心を整えるはずの場所で、こんなに心が乱れることがあるなんて…」
そう戸惑う出来事に出会ったのです。

教会は癒やしの場所であると同時に、
人と人が出会う、まぎれもない“現実の場”でもあります。

今日はその中で感じたこと、
そして 「心を守る」ということ について綴ります。

聖堂での時間は、私にとっての静かな聖域

聖歌隊として奉仕する時間は、日々の喧騒から心を解き放つ、
大切な安らぎの時間です。

しかしその静けさの中へ、思いがけない不協和音が訪れることがあります。

正論が通じないとき

ある日、私は教会内で、Aさん(仮)から
「あなたのせいで、Bさんが私を無視している」
という 全く事実ではない「言いがかり」 を受けました。

説明しても、聞いてもらえません。
Aさんの中では、心に描いた「物語」が、真実と化していたのです。

気がつけば私は、
静かな聖堂の中で声を荒げてしまっていました。
それは深く反省すべきことでした。

善意が通じない、謝罪の無力

後日、A さんは別の方ともトラブルを起こし、助祭さんが仲裁に入られていました。
そのあと、私を見つけると、A さんは私を指差して言いました。

「あなたはまだ私に謝っていない!」

私にも感情的になった部分があったので、謝罪しました。
「言いすぎてごめんなさい」と。

けれど、A さんはそれを受け入れるのではなく、
「あなたは私にひどいことをした!」とさらに責め続けました。

その瞬間、私は悟りました。

Aさんには、言葉をどれだけ尽くしても、届かないと。

そこで、私はそっとその場を離れました。

正直なところ、内心ではAさんの態度に 「いやいや、さすがにそれは無理筋では…?」 と、
心の中の私がテーブルに突っ伏していました。

あの瞬間、私の脳内では
「落ち着け私…今ここで“聖人モード”は重すぎる…!」
という小さな自分会議が行われていました(議決は「とりあえず深呼吸・撤収」)。

そんな 自分にだけ聞こえるツッコミ が、
なんとか私を踏みとどまらせてくれたように思います。

信仰と心の境界線

この出来事を通して、私は信仰と感情のあいだにある葛藤を深く感じました。

教会は、神に愛された人々が集う場所であり、
同時に心の未熟さを抱えた人間が共に歩む場所でもあります。

「人を愛し、赦しなさい」
— これはキリスト者にとって大切な教えです。

けれど、だからといって
自分を傷つける言葉をそのまま受け入れる必要はないと思います。

聖書にこんな言葉があります。

「何よりも、あなたの心を守りなさい。
そこに命の源があるから。」

(箴言 4:23)

相手の言葉を心に根付かせないこと。
自分の心に毒を溜めないこと。

それは、静かで強い祈りの形です。

未熟な私は、金輪際Aさんとは関わりたくないし、できる限り距離を取るでしょう。
けれど、ただ「彼女の心が穏やかになりますように」と祈ることはできる気がします。

「赦し」「愛」と聞くと、
鳩が肩に止まりそうな慈愛に満ちた人を想像しますが…

現実はときどき、
精神リフレクション筋トレ会場 みたいな日もあります。

信仰生活、案外フィジカル。

癒やしを紡ぎ続けるために

他者を変えることはできません。
でも、自分の心に毒を根付かせない選択はできる。

傷ついてしまうこともあるけれど、
そこで立ち止まり、もう一度祈りに手を戻せること。
それが信仰の力だと、今は感じています。

ロザリオを編む指先に、
「もう一度優しくありたい」という祈りが戻ってきました。

これからも、誰かの心にそっと寄り添うロザリオを紡いでいけますように。