聖週間って? 受難から復活へ〜イエス様と歩む一週間

四旬節の終わりが近づくと、カトリック教会では「聖週間」に入ります。今年は来週、4月13日から聖週間に入ります。この一週間は、イエス・キリストの受難、死、そして復活を特に深く黙想する大切なときです。
カトリックの方はもちろん、カトリックに興味のある方にとっても、信仰をより身近に感じられる機会になるかもしれません。
ここでは、聖週間の主な日々と、それぞれの意味やちょっとしたお祈りを書こうと思います。
受難の主日(枝の主日) イエス様を迎え、苦しみを思う
聖週間は「受難の主日(枝の主日)」から始まります。今年は4月13日です。
イエス様のエルサレム入城は何を意味するの?
イエス様がエルサレムに入城する際、多くの人々がイエス様を救世主(自分たちを苦しみから救ってくれると信じられていた存在)として歓迎しました。その時、人々は道の両脇になつめやしの枝や、時には自分の着ていた服を敷き、イエスを称えました。この様子から、「枝の主日」と呼ばれるようになりました。
この入城は、旧約聖書に預言されていた救世主の到来を象徴する出来事とされています。人々はイエス様を王として迎えましたが、イエス様が目指したのは世俗的な権力を持つ王ではなく、人々の心を神へと導く霊的な王でした。
けれど、この熱狂的な歓迎は長くは続きませんでした。イエス様の教えや行動は当時の宗教指導者たちの反感を買ってしまい、最後には十字架刑につけられることになります。枝の主日は、この劇的な変化への序章となる出来事です。

枝の主日はどのように祝われるの?ミサは?
カトリック教会をはじめとする多くの教会では、枝の主日のミサ(礼拝)の中で、棕櫚(しゅろ)の枝(地域によっては他の常緑樹の枝)を祝福する儀式が行われます。この枝は、当時の人々の歓迎のしるしを思い起こさせるものです。
祝福された枝は、一年間家庭で大切に保管され、翌年の灰の水曜日に焼かれて、灰の儀式に使われます。
枝の主日は単にイエス様の入城を祝うだけでなく、その後の受難と死、そして復活へと続くイエス様の生涯全体を思い起こすための大切な日です。私たちは、熱狂的な歓迎から一転して十字架を求める人々の姿を通して、人間の心の変わりやすさや罪深さを自覚し、イエス様の謙虚さと愛を深く考える事ができます。
ミサでは、イエス様の受難の物語が読まれ、これから迎える聖週間の意味を深く感じることができます。この日は、イエス様を心に迎えつつ、お祈りしたいと思います。
「主よ、あなたが示された愛と謙遜に倣うことができますように」
聖木曜日 最後の晩餐と愛のしるし
聖木曜日は、イエス様が最後の晩餐で聖体を制定した日です。この日のミサは、特別な意味を持っています。
特徴的なのは「洗足式」。これは、イエス様が弟子たちの足を洗い、「互いに仕え合いなさい」と教えたことを思い起こすものです。多くの教会では、司祭が信徒の足を洗う儀式が行われます。
この日は、聖体の神秘を深く黙想し、イエス様の愛と謙遜を心に刻む日です。
「主よ、私もあなたのように、愛をもって人に仕えることができますように」
洗足式を受けられるのは男性だけ?
余談ですが、私の所属教会で洗足式を受けるのは男性ばかりなのですが、皆さんの教会ではいかがでしょうか?
今の時代では「差別」などと言われかねないのですが、これは聖書の記述の伝統的な解釈に基づいた習慣だったそうです。「だった」と過去形なのは、2016年の教令(「主の晩餐の夕べのミサ中の洗足式について」)によって規則が変更され、現在では男女の区別なく教会共同体の中から選ばれた人々の足を洗うことが認められているからです。この変更は、イエス・キリストの奉仕の精神が全ての人に向けられたものであるという理解を深めるためのものなのだそうです。
私の所属教会の場合は、単に女性で希望する人がいないだけな気がします(タイツ履いてるし、ちょっと寒いし、足出したくないし^^;)
金曜日 沈黙と祈りのうちに、十字架の愛を深く思う日
聖金曜日は、イエス様が私たちの罪のために十字架上で亡くなられた日であり、キリスト教において最も悲しみと静けさに満ちた日です。華やかな復活祭を目前に控えながら、この日は特別に、イエス様の受難と死を深く黙想する時間となります。
聖木曜日の晩餐で弟子たちと最後の食事をされたイエス様は、その夜のうちに捕らえられ、不当な裁判を受け、鞭打ちや茨の冠といった苦しみを受けられました。そして、重い十字架を背負いゴルゴタの丘へと向かい、そこで十字架にかけられて息を引き取られました。

聖金曜日の典礼は、他の日とは大きく異なります。通常行われるミサ形式では行われず、代わりに「主の受難の祭儀」と呼ばれる特別な儀式が行われます。祭壇の飾りはなく、十字架像は布で覆われていることが多く、教会全体で深い悲しみを表しています。
この祭儀の中心となるのは、聖書の朗読、特にイエスの受難物語の朗読です。信者は、イエス様がどのような苦しみを受け、どのような言葉を残されたのかを改めて聞き、その犠牲の大きさを心に刻みます。
また、聖金曜日の典礼で特徴的なのは、「十字架の崇敬」と呼ばれる儀式です。覆いが取り払われた十字架が信者の前に示され、一人ひとりがひざまずいたり一礼したり、イエス様の愛と犠牲に感謝と敬意を表します。この行為は、単なる偶像崇拝ではなく、十字架を通して示された神の愛を深く受け止め、自身の信仰を新たにする機会となります。
聖金曜日はカトリック信者にとって、断食と節制を行う日でもあります。これは、イエス様の苦しみを少しでも分かち合い、心を清めるためのものです。豪華な食事を避け質素な生活を送ることで、イエス様の犠牲を思い起こし、物質的なものへの執着から心を解放します。
この日、教会では聖櫃(聖体を安置する場所)が開けられず、聖体拝領は通常行われません。しかし、聖木曜日のミサで聖別された聖体で聖体拝領を行う事が多いようです。(私の所属教会もこちらです)
聖金曜日は、悲しみの日であると同時に、希望の日でもあります。イエス様の死は終わりではなく復活への始まりだからです。この静かな一日を通して、私たちはイエス様の大きな愛と犠牲を深く黙想し、復活祭に迎える喜びをより深く味わうことができるのです。
聖金曜日、私たちは沈黙と祈りのうちに、十字架の愛を深く思い、感謝の気持ちを新たにします。
「主よ、あなたの愛の深さを思い、感謝の心をもって生きることができますように」
聖土曜日 静寂の中で、復活の光を待ち望む日
聖金曜日の深い悲しみと静けさを受け継ぎ、聖土曜日は、イエス様の受難と死を静かに思い起こし、復活の希望を胸に秘めて過ごす日です。聖金曜日には行われた主の受難の祭儀も、この日は行われず、教会全体がひっそりとした雰囲気に包まれます。
聖土曜日は、イエス様が十字架上で亡くなられ、墓に葬られた日です。弟子たちは悲しみに暮れ、希望を失いかけていたかもしれません。しかし、神の計画はそこで終わることはありませんでした。この静寂の中には、やがて訪れる偉大な出来事への準備が秘められているのです。

この日、カトリック教会では特別な典礼は日中には行われません。祭壇は飾りがなく、十字架は覆われたままで、聖櫃は空の状態です。これは、イエス様が死の中に留まられ、私たちから見える形で存在されていないことを示しています。信者は、それぞれの場所で祈りや黙想を通して、イエス様の受難を深く思い、復活への希望を育みます。
聖土曜日は、しばしば「偉大な沈黙の日」とも呼ばれます。それは、イエス様の死がもたらした深い悲しみと、復活という驚くべき出来事を前にした期待とが入り混じる、特別な静けさだからでしょう。この沈黙は、内なる声に耳を傾け、神の存在を感じるための大切な時間と言われています。
また、聖土曜日は、復活徹夜祭(復活祭の始まりを告げる最も重要な典礼)の準備の日でもあります。教会では、復活祭の象徴となる新しい火が準備され、復活のろうそくが灯されます。洗礼を受ける準備をしている人々にとっては、大きな恵みの時を迎えようとしている時です。
聖土曜日は、一見すると何も起こらない、静かな一日かもしれません。しかし、この静寂の中には、神の偉大な救いの計画が着実に進行しているという希望が満ちています。私たちは、イエス様の死を深く記憶しつつ、やがて訪れる勝利の光を信じて待ち望むのです。
聖土曜日、私たちは静寂の中で祈り、希望を育み復活の喜びを迎える準備をします。この夜には「復活徹夜祭」が行われ、いよいよ復活祭を迎えます。暗闇の中で灯される復活のロウソクの光は、希望そのものです。
「主よ、希望の光を心に灯し、あなたに信頼して歩むことができますように」
聖週間を心豊かに過ごすために
聖週間は、ただの「特別な一週間」ではなく、私たちの信仰を深め、イエス様と共に歩む時間です。
お祈りの時間を増やしたり、十字架の道行をしたり、ロザリオを捧げたり…それぞれのやり方で、この期間を大切に過ごしてみてはいかがでしょうか?
私の場合は、この四旬節、ちょっと真面目に来週からの聖週間を考えつつこの記事を書いています。(普段のグータラ信者っぷりを反省しつつ……)
イエス様の愛に触れ、心が満たされる聖週間となりますように。